小田原市を小田原市斎場を運営しており、市民に不幸があったときの火葬はもっぱら同斎場が使用されます。小田原市居住者は無料です(安置室使用を除く)。小田原市斎場は市営斎場なので、職員は金銭を直接受け取ることが禁止されていますので、利用者は職員に心づけを渡してはいけません。小田原市に本社・支店のある葬儀社は、イヨダ、式典総合葬祭、宮越仏具店、市民葬祭、きくや葬祭、新光典礼、さがみライフサービス、小田原市民葬祭、ハマソウ、あおいろ互助会、西湘葬祭などの企業があります。
小田原市は神奈川県の南西部、相模湾に面する場所に位置します。歴史は古いですが、とくに小田原藩の小田原城とその城下町があったことがよく知られています。JR東海道線、東海道新幹線、小田急小田原線が通り、東京への交通の便は比較的悪くはなく、その気になれば通勤・通学も可能ではあります。そのため東京のベッドタウンとして注目を浴びて人口が増えたこともありますが、近年は都心や川崎などに大型マンションの建設ラッシュが続き、相対的に小田原のベッドタウンとしての魅力は低下してしまい、人口減に転じてしまいました。
同地出身の人物として、二宮尊徳(金治郎)がいます。彼は天明7年、相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市)に百姓の子として生まれました。少年の頃より、わらじを編むなど仕事をし、夜は読書をして勉学に励みました。夜勉強すると灯りの油代がもったいないと叔父に言われると、畑で自ら収穫した種を菜種油と交換し、灯りに使用しました。努力と創意工夫により、荒地を田畑として蘇らせ、おちぶれていた家を再興させました。その能力を小田原藩家老服部家に認められて採用されると、服部家の財政を立て直すなど、手腕を発揮しました。最期は日光で没しています。明治時代以降、学校教育に利用され、全国の小学校に二宮金次郎像が建てられました。あの、薪を背負いながら読書する姿です。しかし近年、教育方針に合わない等の理由から像を撤去する学校が相次ぎ、二宮金次郎像は減少傾向にあります。果たしてそれが良いことなのかどうか、判断は難しいところですが、生き方の模範が失われて久しい平成の世に、子供たちにとって生き方のモデルとなる何かしらの存在があってもよいのではないでしょうか。
このように歴史的に古くから続く小田原の町。葬儀においても若干の独特の習慣があり、全国的には忌明け後に参列者に送る香典返しですが、小田原では、お通夜・告別式時に、会葬者から香典を受け取った時点で、香典返しをするという傾向にあります。足柄地域では、告別式・葬儀式の前に火葬を先に済ませてしまう場合もあります。比較的新しい住宅地を中心に、家族葬・密葬を行うケースも数を増してきています。