神奈川県三浦市は三浦半島の先端に位置します。三崎町に三浦市火葬場という火葬場があり、三浦市民の火葬はもっぱら同火葬場で執り行われます。市営施設なので、職員は公務員であり、寸志を渡すことは禁じられています。お通夜・告別式といった式については、自宅や葬儀社ホールで行われることが一般的です。三浦市の葬儀会社は、金子慈光堂、三浦葬祭舎、藤屋葬具店などといった会社があります。
三浦市は横須賀市に南部にあり、横須賀市に合併を打診したこともありましたが、断られました。漁業・農業が市の産業の中心です。三浦半島南端に三崎漁港があり、三崎漁港を挟んで城ヶ島という島があります。三崎漁港は遠洋漁業の拠点港となっており、マグロの水揚げで著名です。三崎港を店名に冠した回転寿司屋が全国に見られるほどです。三浦市の面積の4割近くを野菜畑が占めます。キャベツ、三浦ダイコン、スイカなどの栽培を行っています。
城ヶ島(じょうがしま)は、神奈川県内でもっとも面積の大きい自然島です。城ヶ島の歴史的は古く、鎌倉時代には、三浦氏の水軍の拠点でした。景勝地としても昔から知られ、源頼朝も城ヶ島をおとずれました。頼朝は両岸に桜を植えて楽しんだと云われるが、その桜は今残っていません。鎌倉時代における軍事的役割と観光地を兼ねた城ヶ島の二面性は、時代が下ってもこの島の運命を奔走しつづけます。東京湾の入口というロケーション上、国防の拠点となります。江戸時代、浦賀奉行が砲台を築きます。明治時代になると、大日本帝国海軍により要塞化されます。城ヶ島の軍事設備が解除されたのは、太平洋戦争が終戦したときです。大正時代、北原白秋(三崎町に住んでいたことあり)が作詞をした歌「城ヶ島の雨」によって全国的に城ヶ島の名が知られるようになりました。1923年、関東大震災の影響を受け、海岸が隆起し、砂浜海岸が、岩石が突き出る海岸に様変わりし、海水浴客の減少につながってしまいました。奇岩はそれはそれで観光要素になりましたが、その後、北側は人工的に埋め立てたため、北部は奇岩群が失われました。1960年、城ヶ島大橋が完成しました。現在は娯楽の多様化もあり、以前ほどは観光客がおとずれなくなっています。