大多喜町(おおたきまち)には大多喜斎場無相苑があり、大多喜町民が死亡した際の火葬は、専ら同斎場で執り行われます。死亡届は、死亡の事実を知った日から7日以内に、大多喜町役場税務住民課住民係へ故人の親族(または同居者、家主、地主、家屋管理者、土地管理者)が、死亡診断書(または死体検案書)および火葬料と印鑑(届出人の印鑑)を持参します。大多喜斎場無相苑は町営斎場なので、斎場従業員にいわゆる心づけ(金銭・物品によるチップ)を渡すことは禁止されていますので、ご留意ください。
御通夜・告別式は自宅で行う場合もあれば、近場のセレモニーホールで行う場合もあります。大多喜町は古くからある町ですが、徐々に現代的な葬儀である家族葬・直葬なども増えてきています。夷隅郡大多喜町に本店・支店のある葬儀会社は、JAセレモニーセンターなどです。
夷隅郡大多喜町は房総半島の南東部、内陸側に位置します。全体的に山がちで、森林の割合が7割に達しています。町の中心部は、大多喜城という城の城下町でした。大多喜城は戦国時代から江戸時代にかけて存在しました。1521年、真里谷信清が小田喜城(おだきじょう)という城を築城し、その小田喜城をベースにして今の大多喜城を本多忠勝が築城したとされています。同地では騒乱に次ぐ騒乱がありましたが、上総国が徳川家康の傘下に入ると、本多忠勝が城主になったのです。その後、大多喜藩の廃藩などもあり、次第に荒廃していき、明治3年に取り壊されました。現在は天守が再建され、千葉県立中央博物館大多喜城分館となっています。
本多忠勝(ほんだただかつ)は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将で、酒井忠次、榊原康政、井伊直政と共に徳川四天王と称されています。三河国額田郡(愛知県岡崎市)に生まれ、幼少時より徳川家康に使え、初陣は15歳のときです。率先して敵陣に飛び込み、数々の武功を立てました。関ヶ原の戦いにも従軍しています。墓所は浄土寺(三重県桑名市)ですが、分骨が大多喜町の良玄寺(本多忠勝による開基)にあります。
大多喜城の城下町である大多喜の町は、観光に力を入れており、古い町並みを再現しようと、メインストリートの両サイドの商店を、江戸時代風の日本家屋に建て直しています。電気店なども江戸時代風にしてあり、不思議な風情があります。鉄道ファンには有名なローカル鉄道である小湊鉄道や、いすみ鉄道が走り、観光客のメイン層となっているようにも思えます。